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もどったろやんけ
SwissBozの言語こぼれ噺
年齢以上の数の言語を噛ったことのあるSwissBozですが、その経験からいろいろな外国語にまつわる面白い話をここに紹介していきます。
<ドイツ語はスイス人にとって外国語?>
<インターネット時代の共通語>
<日本人は英語を学ぶべきか(1)>
インターネット時代に突入−1995年から1996年にかけて、インターネットに接続された人は一般の社会でもふえてきた。しかし、繋がったと同時に、焦っている人も多いのではないだろうか?つまり、そこで飛び交う情報の道具−英語のことである。
英語。実にインターネットを飛び交う情報の90%以上は英語であるといわれる。WWWに限ってみてもその割合は変わらないであろう。これからは、仕事するにも勉強するにも遊ぶにも、英語が使えなければその情報の9割以上が使えないことになる。しかし、それは本当だろうか。どうにかして、あの横文字から逃れる方法はないのであろうか?
ここではWWWを主にテーマとして考えてみる。まず、ブラウザをみてみよう。現在多く普及するブラウザーはネットスケープかマイクロソフトインターネットエクズプローラーであろう。この両者、「日本語」版もでており、ブラウザーそのものの操作は、日本語で行える環境が整っている。つまり、殆ど英語に触れなくても、ページに繋ぐところまではできる。
いったん繋がったら、英語から逃れられる方法はないのだろうか?幸いなことに、各種検索ソフトも日本語版が出ている。道具としては、日本語でかなりのところまで使える水準に達しているといってもいい。
しかし、日本語で調べられる情報にはやはり限りがある。もちろん、英語でも限度があるのは確かだが、残念ながら、日本語で検索できなくて英語では可能という情報はかなり多い。
それならば翻訳ソフトという手はどうだろうか?このソフトの評価は、使えるものもあるが、全体としては、使用する人にある程度英語力がないと使えないというものであった。できた翻訳が正しいかどうかをいちいちチェックしている位なら、英語をそのまま理解するほうが速いという人も場合によってはいるであろう。勿論、翻訳ソフトの進化は著しい。現在主なものだけでも10以上あるという翻訳ソフトが切磋琢磨すれば、もしかしたら、来年の今ごろには英語を見ずに世界中のウェブページをサーフできると言うこともあるかもしれない。つまり、個々の翻訳のチェックまでもを翻訳ソフトの会社が受け持つこともありうるかもしれない。
しかし、言葉はいきものである。翻訳という作業は例えそれが人間の手によるものであれ機械によるのものであれ、フィルターを通すことにほかならない。翻訳による限界は例えバイリンガルによる翻訳であっても存在する。バイリンガルでも、おのおのの言語で考える時はその言語で発想しているといわれている。そこには翻訳という作業はない。その言語で完結している作業であることのほうが多いと言われる。そして、また、インターネット上の言葉はまさに生きていて、日々変わる。生きている言葉を相手にしているのだから、その言語に目をつぶっていては何も見えてこない。
やはり、現在、21世紀を目の前にした日本人は、英語を学ぶべきか?あるいは、学ぶ必要があるのだろうか?答えは残念ながらYesと言うことになりそうだ。少なくとも、日本語という色眼鏡で見ない努力をする必要はありそうだ。(97/5/5)
日本人は英語を学ぶべきか(2)
前回、日本人も英語を学ぶべきという結論に達してしまったが、これにがっくりきてしまった人も多いのではないだろうか。今回は、それでも横文字は見たくない人の立場になって考えてみることにする。
前回の話の前提は、仕事や勉強、遊びにおいて、貪欲に世界中にその情報源を求めるべきという発想が根本にあった。しかし、21世紀の生活にそれ程沢山の情報が必要になるのであろうか?
答えは、Jein(ドイツ語でJa(=Yes)とNein(=No)をかけた言葉。)とでもいうところか。日本は、21世紀に向けて産業の構造転換をはかるべきという意見がある。つまり、天然資源のない国なので、結局は人的資源、知的財産にその生きる糧を求めて行かざるを得ないというのだ。多かれ少なかれ国全体の方向としては、この方向に行かなくてはいけないだろう。つまり、全体としては英語が道具として必要となるということである。しかし、個々に見てみると、必ずしもそうはならないのではないであろうか?
21世紀初頭にも、インターネットは現在の電話や車と同様に生活の必需品となるであろう。ただし、普及率は100%までは行かずにある一定のところで収束すると予想される。現在でも車を所有していない人がかなりいるように、インターネットが必要でない人はかなり先まで残るであろう。
まず家庭生活を中心に考えてみると、インターネットを利用した生活に密着したサービスはかなり普及すると考えられる。その殆どは、英語を介さずにも取り引きができるサービスとなることは間違いない。また、ユーザーに代わって英語で取り引きを行う代行サービスというものも登場するだろう。あるいは、アメリカなどの業者にも複数言語のページを用意することも考えられる。日本語は世界の主要言語(人口規模および経済規模)であるから、サービスを行うであろう6ー7言語のうちにほぼ例外なく含まれることになる。そうなると、英語を使った取り引きはしなくてもよくなる。
次に、業務における状況はどうであろうか?これはかなり違うかもしれない。現在、大学生が就職の際、必要なものと考えるものにパソコンが使えることと英語がかなり上位に来る。ビジネスでは、家庭サービスよりはるかに世界中の相手と直接交渉する機会が多くなる。そうなると、いちいち翻訳ソフトには頼っていられなくなる。もたもたしていると、抜かれることにもなる。また、映像技術の格段の進歩により、交渉相手と直接目をみながら、商談ということもあるかもしれない。そうなると、日本人が一番苦手としてきた「喋る」と言う能力まで必要になる時代が来るかもしれない。喋る能力が必要になるケースはさすがにまれであろうが、読んだり書いたりするケースは日常茶飯時のことになることは間違いない。そうなると、翻訳ソフトに頼るとしても、最低限英語をチェックできる能力は必要になる。
では「勉強」する場合、どうなるだろうか?(97/5/5)
<日本人は英語を学ぶべきか?(3)−acな人の場合?>
(1)や(2)では一般の日本人について、英語を学ぶべきかどうかを考えてきた。ではインターネットの発祥の地、「acな人々」つまり、「学問する人」の場合はどうであろう?
インターネットを長年使いなれている大学関係者の場合を考えてみる。医学系の研究論文がひけるMEDLINEで検索できる論文の言語分布をみてみよう。例えば、少し前になるが、1993年のMEDLINEに載っている論文総数は37万5000あまり。そのうち実に80%を越える32万あまりが英語による論文だ。1984年では75000程度だった非英語論文も、1993年には53000余りになってしまった。1984年には約2割が非英語の論文であったものが、1993年では15%を切り、今年はすでに一割を切りつつあるという。特に落ち込みの激しいのはロシア語で、1993年までは2番手を争っていたのが、現在ではみる影もない。もちろん論文そのものの数は毎年増えており、非英語の論文はその総数でさえどんどん減っているのだから、自然化学の研究に限ってみると、研究の世界の英語の共通語化も間もなく完了するというといっても過言ではないであろう。
また、日常の研究の場を想像してみる。96年、APECでアメリカ政府がEduNetという国境を越えた研究協力のセンターを設置することを明らかにした。EduNetだけに限らず、インターネットを介した研究協力の形態は単にデータのやり取りにとどまらず、日常の幅広い研究活動で様々な形態の協力が行われることが予想される。例えば、電話の代わりにテレビ電話がインターネットで簡単に行えるようになれば、生のデータを直接見ながら議論が行える。議論を行うときには結局、英語が道具になることは避けられないだろう。現時点では想像もつかない形の研究協力の形式も誕生するであろうが、英語が必要不可決であることは容易に予想できる。
やはり、「学問」するなら英語は必須ということだろうか。(97/5/5)
<多言語文化ヨーロッパの場合>
過去多くの言語を維持してきたヨーロッパの場合はどうであろうか?やはり英語が標準語化するのは避けられないのだろうか?
このことを語る前に、ヨーロッパでは実は過去数世紀にわたって共通語が存在していたと言うことから語らねばなるまい。ヨーロッパでは、古代ギリシャ語ついで、長くラテン語が共通語であった。これは、ギリシャ文明、そして、ローマ帝国以来の伝統である。ラテン語は、口語としては早くに絶えてしまったが、書き言葉の共通語としては実に1000年以上にもわたり生き残った。実際ニュートンの論文もラテン語でかかれている。
時はうつろい、二十世紀。大英帝国の繁栄の後、アメリカが超大国として出てくる。それとともに英語が国際語としての地位を獲得して行った。ヨーロッパも統一の気運が高まり、それと同時にコミュニケーションの道具としての言語も考えなければならなくなった。勿論、世界情勢も考えての英語。それに維持を張り続けるフランスの主張もとおりフランス語も道具として認められている。
しかし、1996年はそのフランスでさえ、革命が起こった。5月にパリで開かれたある国際会議で、主催者のフランス人が全て英語で挨拶したのだ。インターネットはてこでも動かなかったフランス人の言語感を変えようとしているのである。ただしどこかの国と同じように官僚を除いては。i-net.comによると、先日もまた、その頭の固い官僚の作った法律の餌食が出たようだ。というのも、フランスではフランス語を付記しない商品やサービスは提供してはならないことになっている。ジョージア工科大学のロレーヌ分校は、その法律を無視して英語のみによるウェブページを作ったのだ。このことは、フランスのインターネットでの真のデビューを妨げているという声もある。
筆者の周りの環境はどうであろうか?筆者の働く環境にもフランス人とドイツ人が私いるのであるが、彼等の話しているのは何語であろうか。アルザス地方の人のもともとの言葉がドイツ語の方言でもあることから、国境で育ったもの同士の場合、ドイツ語になるケースが多いようであるが、もしそうでなかったらどうなるのだろうか?意外というかやはりというべきか、殆どの場合英語である。お互いが第一外国語として学ぶ言語が英語の確率が高いわけであるからごく自然の成り行きといえよう。
ただし、これにも、いろいろ「階級」による温度差はあると思われる。ヨーロッパでは大学を出た人は日本の場合と違いほぼ100%英語を喋るため、英語でのコミュニケーションでも苦にならないし、母国語が通じない場合は英語の方が自然という人が多い。そして、いくつかの調査が示しているようにインターネットの利用者はかなり大卒以上の教育を受けた人によって占められている傾向が出ていることを考えると、英語が道具になるのはますます自然といえるのではないであろうか。
また、最近、スイスで第一外語にスイスの公用語であるドイツ語・フランス語・イタリア語に加えて英語も追加しようという意見も出ている。スイスでは英語は公用語ではなく、第二外語として学ばれるケースが殆どである。国の成り立ちの特殊要因から来るものだが、国境が昔ほど意味をもたなくなった現在、こういう意見が出てくるのも無理はないと思われる。
このように、ヨーロッパでもインターネットに限ればもちろん、限らなくても英語が共通のコミュニケーションの道具となる日は遠くないか、あるいはすでにそうなのかもしれない。(97/5/5)
<私ビョーキ?>
”Bist Du krank?”ドイツ語生活を始めたとき、こう聞かれて参った思い出がある。krankって病気のという意味の形容詞と習っていたので、「君はビョーキ?」と聞かれているのかと思ってしまったのだ。日本語で病気と言うと、普通重い病気をさし、一般的に「風邪(感冒性症候群)」は指さない。日本語で病気だと言うことは、かなり生活に支障が出ているという意味である。(もちろん、病気とビョーキは意味が違うがここでは置いておく)しかし、ドイツ語では違うのだ。krankは勿論病気という意味を指す広い形容詞だが、”Bist Du krank?”ときかれたら、それは「風邪ひいたの?」位の意味なのだ。ドイツやスイスではkrankが欠勤の理由に十分で、それは有給休暇とも違い出勤扱いとなり給料が支払われる。実際krankといっても日本では風邪の状態であることが多い。逆に日本語の「風邪」はドイツ語ではかなりいろいろな言葉を含んでいる。インフルエンザを表わすGrippeからこのkrankまで。日本語の風邪の意味の広さは改めて考え直してみるとすごいものがある。しかし、もちろん風邪は万病のもと。風邪はkrank、病気なのだから、無理せず休んだほうが効率から言っても良いのかもしれない。(97/2/26)
<簡単な言語とは?>
ポーランドの言語学者ザメンホフがエスペラントを考え出したとき、その言語は万人に学びやすいように考え出されたはずだった。しかし、その誕生から一世紀ほどたった今日、エスペラントはお世辞にも世界で通用する言語とは言えない。エスペラントはそんなにも「難しい」言語なのだろうか。
筆者がエスペラントを噛ったのは中学時代のことである。今読むと顔から火が出る卒業文集にエスペラントの一文が載せてある。今でも覚えているその構文は「Mi estas,,,」と言うものだった。エスペラントはたしかに習うのには簡単な言語である。ややこしい活用形はないし、ややこしい時制もない。しかし、この言語に欠けているものがある。そう政治力である。この言語は世界中のどの人にとっても第二言語以下、すなわち外語に相当するのである。そうなるとそれを母語としてバックアップしてくれる勢力が無い。そうなると、いかに学びやすい言語でも普及できるはずもなかったのである。
筆者が噛った言語ではインドネシア語が比較的学びやすかった記憶がしている。その理由としてまずその言語構造の単純さ(時制のないことなど)と文字(アルファベット)が挙げられる。また、インドネシア政府がそれを国語として普及させていることもあり、誰もが一応最低限は理解する。インドネシアは言うまでもなく大国で人口は二億を数える。言語の成立自体が面白く、東南アジアいったいで広く使用された商業用語が基本となっているので、無駄を省いた言語に仕上がったのだろう。ちなみに、マレー語も基本的にはほぼ同じ言語なので、インドネシア語をマスターすればマレーシアでも不自由することはないであろう。筆者は2週間の付け歯焼ながら、現地で値段の交渉をするところまでたどり着いた。また、誰もこないような島にたどり着き、とりあえず、最低限度のことを伝えられたときの感動は忘れられないものがある。しかし、いまでは、すっかり忘れた。もう一度やり直そうかと思っている。
現実に戻ってみる。世界を見回すと、そう、現在、英語が世界で一番使用されている。これは、否定しようもない事実である。ところで、英語はそんなに習得が簡単な言語なのであろうか?(このテーマ続く)(97/1/26)
<英語と日本語−意外とにている言語構造>
英語と日本語は全然構造の違う言語の対照的な例としてよく引き合いに出される。もちろん、それはある意味で正しい。しかし、細かく分析して行くと、意外な共通点にぶつかる。
というのは、語彙の成立の状況のことなのである。両言語とも、外国からの文化ひいては語彙の借用に寛容な言語である。日本語を分析すると、細かい議論を除けば(これについては、追々触れるつもりである)やまとことば、漢語、そして、近代以降の外来語の大きく分けて三層の構造をしている。みなさんもよくご存じであろうが、「やどや」「旅館」「ホテル」という言葉が象徴しているように、各々微妙に住み分けをしている。この構造が何と英語にもあるのである。英語は、もちろん、ゲルマン語派のアングロサクソン系の言語である(細かい議論は省く)。そのころから使われている語彙は、ゲルマン祖語から分かれたと推測される語彙で、これが日本語のやまと言葉に相当する。そして、次の影響がフランス語。ノルマンディーの時代から実に前世紀までフランス語はイギリスにおける公用語の地位をもっていたため、英語に入っているフランス語は60乃至70%といわれている。これは日本語の漢語に相当する。実際の用法でも同じで、日本語で漢語が無かったら表現がかなり貧弱になるのと同様、英語もフランス語起源の単語を使わないとするととても貧弱か幼稚に聞こえる。逆に、フランス語起源の単語ばかりにするとものすごく堅苦しく聞こえる。これは日本語で漢語ばかりの文章を作ったのとそっくりである。また、前世紀の終わりから、国際間の交流が激しくなるに連れて、日本語には主にヨーロッパの英語、ドイツ語、フランス語などから膨大な数の外来語を輸入した。同じように、いわゆる第三の語彙群が英語にも入っている。ただし、三番目の語彙群の使われ方は日英でかなり差があるようである。英語ではまだ、新鮮とか奇抜という印象を与えるが、日本語の場合は既にかなり日本語化している表現も見受けられる。
英語を使うときに気をつけたいことはその場の雰囲気にあったクラスの単語を使うことである。それは日本語のことを考えれば、分かることであるが、なかなか実践するのは難しい。(97/1/23)
<周波数>
各言語で使用される音の周波数というのは全然違うらしい。日本語は1000Hz前後の音しか使わない、極めて「平坦な」言語だ。これに比べ、ロシア語は極端。人間の聞こえる範囲は20-20000Hzと言われているが、その殆どの領域を使っているといわれる。他のスラブ諸語もそうらしい。実際に会話を聞いていると音楽のようである。SwissBozも8番目の言語としてロシア語を習い始めたが、結局自分でうまく発音する領域には達しなかった。これは、やはり、高だか数百Hzしか使わない言語を母語に持った不幸か、それとも本人の努力不足か。
ちなみに英語はイギリス英語とアメリカ英語で違っていて、アメリカ英語のほうが若干低い音域を使うようである。(97/1/12)
<人称代名詞>
日本語は面白い言語である。東京語の一人称を表わす、「自分」という代名詞は、大阪語では二人称になる。私は大阪人なので、自分という言葉を使われると非常に混乱するのである。(97/1/8)