8/10/1999管理人
実家の兄から、電話が有ったのが、7月上旬。我が家族は
実家に着いて、先ず驚いたのが、あれほど頑強だった体が見間違える程にやせ衰えていた。2年前に胃がんの手術をして、畑仕事も出来るほどに回復したが、その後1年たった頃から、入退院を繰り返していた。私が実家に着いた頃は退院していたが、これは、医者から既に匙を投げられたと言うことらしい。その頃は、ガンは胆管に転移していた。今まで、病院は患者を手放したがらないと言うイメージがあったので、自宅で看病が出来る事に意外だが、本人も病院より、自宅の方が断然良いに決まっている。家族の足跡、話し声が何処からか、聞こえてくる。病院の白い壁とは大違いだ。臨終の3日前に用事があり、実家を半日だけ離れる時、父はしっかりとした口調で「アメリカに帰るのはいつ?」と聞いた。担当医も、偶に回診に来てくれる。いよいよ、危ないのでは・・・と思われた、前日、担当医が「入院するか、このままで良いか」と本人に聞いて欲しいと言われた。勿論答えは分かっている。これも、意外だった。スパゲッティのように管 をアチコチに入れられ物のような扱いを受けながら、この世に終わりを告げる人のいかに多い現在、このような個人の自由に任せてくれる医者又は、病院の方針の所も確かにあると言う事。それにしても、この担当医の訪問日の翌日、私がアメリカに帰る朝にその日が来るとは思わなかった。まだ当分は同じような症状が続くものと思っていた。 ガン患者は死ぬまで、頭がハッキリしていると言われる。だからこそ、本人は本当に辛いかったのではないのか。しかし、聞けば頷いた時はあったが、自分から「痛い」の一言も言わなかった。私もたった3週間弱の看病だったが、看病は一人では大変な負担を強いられる。兎に角、体力が必要な事が良く判った。今まで、看病と言うと、骨折した母の看病、肺炎の子供の看病等いづれも、回復が日増しに目に見えて判る。しかし、最期を看取る看護のつらさはズッシリと肩にのしかかってくる。絶望感、疲労感そして今までの父との追憶も浮かんで来る。 私は冷酷な人間か。父が息を引き取った時何故か何処かでホッとした気持ちも湧いてきた。私がアメリカに帰った後、苦労するであろう兄嫁、母の姿を思い描いていたからである。それに、既に助かる見込みはゼロであったのだから。しかし、たった3週間弱でも、この経験をして今迄、見えなかったものが見えてきた。 全く助からないのなら、私も回りに迷惑をかけてまでも生き延びたくないと強く思っている。それに、父のお世話になった病院のように、人間の最後の尊厳、わがままを聞いて貰い、人間らしくこの世に別れを告げたいと強く思う。しかし、父は幸せだったと思う。家族の中で息を引き取る事が出来たから。独居老人が全く誰にも知られず、この世と別れを告げる人もいるのだから。今、とても平穏な日々を送らせて貰っているのは、対して、お喋りはしなかった父、そして口煩くなかった母の子供であったからだと思う。何か、知らずに生きる糧を教えてくれていたのかも知れない。直接口に出して、感謝の言葉は恥ずかしくて言えなかったが、心からあなた達の娘で良かったと思っている。「ありがとう。」
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